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黄門様の祖母 「お万の布さらし」伝説の地

勝浦正木氏の居城、勝浦城

千葉県勝浦市浜勝浦の勝浦城を登城した。現在では八幡岬公園となっている(2020年11月に登城)。大永元年(1521年)と推定されるが、真里谷氏(上総武田氏)の武田信清によって勝浦城は築城された。この頃、上総武田氏は相模の北条氏に属しており、上総地方の東を狙う里見義堯と対立していた。武田信興は次男の武田信清に命じ、小田喜根古屋城(後の大多喜城)を築城する。同時にその砦として築かれたのが勝浦城である。「武田場」という字名があることからも裏付けできる。勝浦城は南部に突き出した八幡岬に築城され、海面から高さ40mほどの断崖絶壁上にある。陸続きの北側以外は三方面が海に囲まれた海城である。ただし、この築城当時は砦規模とされる。

また遠見岬神社のパンフによると、さらに古くは承平天慶の乱(939年)にて、平将門と同じく乱の首謀者であった興世王が築いた砦であったという。鎌倉時代になると、源頼朝に従った上総広常の支城になったと伝わっている。

勝浦正木氏

勝浦城を登城した(2020年11月)1544年、里見氏の重臣である正木時茂が夷隅郡刈谷ヶ原で武田朝信を討ち取り、ついに上総武田氏は滅亡する。これで夷隅地方は里見氏の支配下となった。正木時茂は朝信の小田喜根古屋城(大多喜城)に入城し、弟の正木時忠に勝浦の砦(勝浦城)を与えた。正木時忠はその砦を大改修し、近世城郭の勝浦城へと変貌したと考えられる。勝浦正木氏は時忠、時通、頼忠と3代続いた。

初代:正木時忠

正木時忠(勝浦正木氏)は、兄の時茂(大多喜正木氏)が死去すると正木氏の実力者となっていく。もともと独立心の高かった正木一族であったため、里見氏からの自立を決断し、第二次国府台合戦(1563-1564年)の直前に離反。里見氏と対立する北条氏康に接近した。この時、息子の頼忠を人質として北条氏に預けている。しかし北条氏との仲は10年持たなかったようで再び里見氏に帰参している。1576年に死去。

2代:正木時通

正木時通は時忠の長男。勝浦正木氏の2代目当主として自立を目指し里見氏と戦うが、北条氏の傘下である千葉胤富にも攻撃しており、孤立状態であった。その後、里見氏に復帰している。1575年、父より先に死去。

3代:正木頼忠

正木頼忠は時通の弟。父、正木時忠が里見氏から北条氏に寝返ったとき、人質として小田原城に送られていた。兄と父が続いて亡くなったため、帰国し勝浦正木氏を継ぐ。1578年、里見氏では梅王丸と里見義頼との間で家督相続争いが勃発すると、頼忠は里見義頼に味方する。これに際し、梅王丸を支持する正木憲時(大多喜正木氏)が反乱を起こすが、これを鎮圧。

里見義堯の娘を後室に迎える。1587年には北条氏と交渉し、息子たちを呼び戻している。前室(北条氏隆の娘※異説あり)とは離縁し、その前室は蔭山氏広の室となった。頼忠の娘「お万」は氏広の養女となった。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、徳川四天王のひとりである本多忠勝が勝浦城を攻め落とす。正木頼忠は安房に逃れて里見氏の客臣となった。頼忠の娘(お万の方)は徳川家康の側室となり、徳川御三家である紀州藩・徳川頼宣、水戸藩・徳川頼房をもうけている。つまりお万は水戸光圀(黄門)の祖母に当たる。

城の縄張り

内宿西谷などの地名現地に置かれている城の縄張り図。本丸から三の丸の位置がざっくりしすぎて非常に分かりにくい。本丸から三の丸までの主郭部分は先端500mほどの規模。このように縄張りの規模が小さいため、城の入り口(三の丸入り口)から城下の北側にかけて細長い丘陵地に城兵の居館が置かれたと考えられる。内宿西谷などの地名はそういうことだろう。

八幡岬公園として整備勝浦城の主郭部分(本丸~三の丸)が八幡岬公園として整備されている。散策マップの面積比率や距離感はちょっとおかしいのであくまで位置だけの参考に。多くのサイトで見られるのは、「駐車場が三の丸、子供の広場が二の丸、展望広場が本丸」であるが、間違いだろう。日本城郭大系の解説とは食い違ってしまう。現地の縄張り図(2つ上の図参照)でもやや内側に本丸(一の倉)が記載されているので展望台は本丸ではない。物見台である。それに展望広場を本丸と言うには規模が小さすぎるし、海城であるため軍船から攻撃は必至であり、本丸がむき出しになるとは考えにくい。

おそらく、加筆した上記図のような縄張りだろう。駐車場は三の丸と二の丸の端をを削って平場にしたのではなかろうか。日本城郭大系では、「南端は少し高い台地となっており、物見台と考えられる。望楼でも建てられていたことだろう。」とあるので、立地からも展望広場は物見台である。展望広場へは、子供の広場(本丸)から自然散策路または階段ルートの坂を上がる。

日本城郭大系では、二の丸から本丸へ細長い通路が描かれているため、「子供の広場」は本丸と判断できる。日本城郭大系では駐車場に当てはまる曲輪はなく、駐車場の南北にある丘陵地が曲輪なのだろう。となると、駐車場は、三の丸と二の丸の間の通路を拡張したものと思われる。

三の丸

丘陵地が三の丸跡勝浦駅から南下し谷戸の道をひたすら歩く。八幡岬手前のトンネルを潜ると駐車場にたどり着くが、まずこの丘陵地が三の丸跡ということになる。三の丸では米蔵や武器倉があったと推定される。当時はトンネルはないので、橋でもかけて丘陵地にあがったのだろうか。

曲輪跡ではない駐車場は曲輪跡ではないようだ。三の丸と二の丸をつなぐ道ぐらいだったのを拡張したような雰囲気だ。または堀切を広げて平場にしたのか。

二の丸

日本城郭大系に描かれている駐車場から南側へ。ここが八幡岬公園の入り口で、日本城郭大系に描かれているように「二の丸から本丸への長く細い道」が続く。このすぐ横の丘陵地が二の丸か。二の丸に城主の居館があったと考えられている。

見晴台すぐに道の脇に見晴台。もともとは二の丸の一部ではなかろうか。

細長い道本丸への細長い道。

八幡神社(堀切か?)

手前に八幡神社の参道子供の広場(本丸跡)に入る手前に八幡神社の参道がある。この八幡は勝浦正木氏が天正年間に勝浦城の守護として祀った。この参道は本丸と二の丸を切り分けるための堀切に見える。遠見岬神社のパンフでは、「本丸に鎮座している」と記載しているので「参道は堀切」で、「社殿のある曲輪は本丸の一部」ということか。

現在では八幡神社に由来し「八幡岬」と呼ばれているが、さらに古くは遠見岬神社の祭神である天富命(あめのとみのみこと)が住んだことから、もとは「遠見岬」と呼ばれていた。

本丸(子供の広場)

ここに勝浦城址の説明板が設置細長い道を越え、子供の広場の入り口へ。ここに勝浦城址の説明板が設置されているので、ここが本丸とみてよさそうだ。

本丸跡(子供の広場)を見下ろす最南端の物見台に上がる坂道で振り返って本丸跡(子供の広場)を見下ろす。入り口の小道のところをみると食い違い虎口のように折れ曲がっている。さらに海の方へ目をやると、旧・遠見岬神社の鳥居が見える。

物見台(展望広場)

展望広場へ。望楼でも建てられていた本丸から坂道を登って展望広場へ。望楼でも建てられていただろう物見台である。

やはり物見台大して広くはないので、やはり物見台だな。

勝浦灯台は大正6年(1917年)に設置勝浦灯台の方角を眺望する。勝浦灯台は大正6年(1917年)に設置された。高さは21.2m。

伝承:お万の布さらし

お万の方銅像(養珠院)物見台に置かれた、お万の方銅像(養珠院)。現地の説明板では次のように書かれている。

「1577年、勝浦城主 正木頼忠の娘として勝浦城に生まれる。名を萬という。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に関連し勝浦城は落城。当時、14歳のお万は海路にて伊豆韮山に逃れた。炎上する城を後に幼い弟を背負い、母と40メートルある八幡岬の断崖に白布を垂らして海に下り小舟に乗って逃れたという。これが伝承の、お万の布さらし。

その後、母は伊豆の土豪である蔭山氏と再婚。1593年、17歳のお万は沼津本陣にて徳川家康に見初められ、江戸城に召されて家康の側室になった。1602年、京都伏見で徳川頼宣(紀伊徳川家の祖)を生み、翌年には駿河で徳川頼房(水戸徳川家の祖)を生んだ。紀伊と水戸の徳川家は御三家であり名高い。頼房の息子、水戸光圀の祖母にあたる。1616年に徳川家康が亡くなったときは、40歳であり仏門に入った(法華経を信仰)。1653年、77歳で生涯をとじた。」

・・・ただし、お万の布さらしには史実的な矛盾がある。父・正木頼忠はお万の母と離縁しており、1590年の小田原征伐のときには、お万は蔭山氏広の養女となっている。つまり勝浦城には居ない。養父となった蔭山氏広は山中城で籠城している。

もしくは1578年ごろ、里見氏の家督争いで正木憲時(大多喜正木氏)が反乱を起こし、勝浦城を制圧したときのエピソードという説もあるがこれも疑わしい。正木憲時は1581年に家臣に誅殺されているため、お万が4~5歳以下のころの逸話になる。実際、侍女か乳母がお万を背負って崖下に降りて逃れたというのが真相ではないだろうか。家康の側室となり、徳川御三家のうち二家の母という高貴さから、話が歪曲されたように推察される。

勝浦駅の改札口で展示銅像原型は勝浦駅の改札口で展示されている。

外城部分

南端の絶壁である本丸~三の丸(八幡岬公園のあたり)が詰の城として、それより北側では、勝浦正木氏の時代には本拠地にふさわしいよう拡張されていったと考えられる。

新地ヶ台と恵比寿台の間の谷戸を通る勝浦城を北側から攻める場合、勝浦湾の海岸線沿いか、新地ヶ台と恵比寿台の間の谷戸を通ることになるだろう。ちなみに恵比寿台はトンネルが掘られている丘陵地で、側の西宮神社では恵比寿神を祀っている。

植村記念公園(鳴海荘跡)~勝浦城の遺構は不明

旧・遠見岬神社の鳥居展望デッキのある植村記念公園は、隣接する新地ヶ台や鳴海神社のある台地より低地になっている。与謝野晶子の歌碑が置かれている。もともと鳴海荘(なるかそう)跡地であったため削平されており、勝浦城としての遺構はよくわからない。

ところで、鳴海荘ってなんぞや?と調べてみたら国民宿舎のことだった。お決まりの赤字経営と老朽化で取り壊された、悪しき高度経済成長期の産物であった。昭和40年代に撮られた写真を見たが、景観を台無しにする巨大宿舎であった。この時代、私利私欲で経済活動をしていた日本人は本当に大馬鹿野郎だ。

展望デッキから勝浦湾を眺めると、旧・遠見岬神社の鳥居が見える。平島と呼ばれており、かつては遠見岬神社の境内であった。1601年に津波で社殿が流され、現在の地に遷座されている。1703年には大地震により地盤沈下し、境内の殆どが海へと沈んでいった。またお万の像のちょうど南に向かった浅瀬に「冨貴島」というのがあり、これも境内であったが沈没している。

勝占忌部氏は開拓の祖神として天富命を祀り、冨貴島に社殿を建てたのが遠見岬神社の創建と伝わる。また勝占忌部氏がこの地に住んだことから、「かつうら・勝浦」という地名の発祥となった。

その断崖下に広がる砂浜では軍船さらに三の丸の丘陵地が眺望できる、その断崖下に広がる砂浜では軍船が往来していた場所とされる。現在ではマリンハーバーになっており、今も昔も入り組んだ湾が軍船を留めるのに都合が良かったようだ、

かつて植村泰忠の居館があった場所植村記念公園の東側の高台に鳴海神社が鎮座しており、かつて植村泰忠の居館があった場所とされる。さらに北隣の山は「新地ヶ台」と呼ばれており、藪の中に入っていけば、曲輪や堀切などが残されているとのこと。新地と言うくらいだから、勝浦城の後期の遺構とみてよさそうだ。このまま北へまっすぐ進むと植林されているが、カーブの坂道があるので鳴海神社の曲輪に上がれる。

鳴海神社(植村泰忠の居館跡)

鳴海神社(なるか神社)植村泰忠の居館があったという場所に建つ、鳴海神社(なるか神社)。この敷地ではさほど広くはない居館だっただろう。1590年~1611年ごろに植村泰忠が守護神として鳴海神社を創建したと伝わる。館と併設されていたのだろうか。

(ちなみに、遠見岬神社が現在地に遷座された1659年、植村氏三代の泰朝は串浜陣屋に館を移している。)

美濃源氏・土岐氏の末裔を称する植村泰忠は、江戸幕府の旗本。もとは鳳来寺の薬師別当であり安養院と号していたが、1573年の三方ヶ原の戦いで僧兵を率いて家康に加勢する。還俗し家康の家臣となり、小田原征伐(1590年)では岩槻城攻略で尽力する。徳川家康が関東入封すると、勝浦3000石が与えられそこに居住した(関ケ原合戦後に2000石加増)。従来の勝浦城を廃し、勝浦の街づくりを行い、後に日本三大朝市に数えられる勝浦朝市を領民に開かせた。

勝浦朝市

覚翁寺の説明によれば、「各集落ごとに開かれていた市を ” 根小屋 ” に集中させて日々市とした・・」とあるので、現在朝市が開かれている場所は「家臣団の居住区」だったと窺える。現在の中心街は、植村泰忠が半島の付け根の西側に家臣団を住まわせたことに由来する。

覚翁寺の所蔵する定書によると、酒の販売は勝浦城下に限定された。勝浦で市が開かれる日では、近郊(松部、串浜、川津、新官、吉宇)での市を禁止した。現在では2箇所で開催されている勝浦朝市だが、江戸時代では勝浦三町(上町・仲町・下町)で10日ごとに場所を移動して開かれていた。

新地ヶ台に行けるが整備鳴海神社に向かって登ってきた道が左側。さらに右側の道から奥の新地ヶ台に行けるが整備されていないので探索は厳しい。

現在では鳴海神社の参道道鳴海神社の南には堀切があり、現在では鳴海神社の参道道。岩盤を削った堀切にみえたが、触ってみると乾燥した粘土層のようで意外と脆かった。

覚翁寺 ~ 勝浦城内にあった浄林寺を移設、改称

勝浦を治めた植村氏の菩提寺勝浦城の北に位置する市街地に覚翁寺はある。勝浦を治めた植村氏の菩提寺で、勝浦朝市の歴史を示す定書が奉納されている。1634年、勝浦城内にあった浄林寺をここに移して、出水山 覚翁寺と改めた。本堂には波の伊八(武志伊八郎信由)の欄間が残されている。

宝筺印塔(ほうきょういんとう)本堂の右隣に植村氏 「三代 泰朝、四代 忠朝、五代 正朝」の墓である宝筺印塔(ほうきょういんとう)がある。

※植村泰忠 - 泰勝(幼名:覚翁丸) - 泰朝(浄林寺を移設、覚翁寺と改めた) - 忠朝(勝浦藩の初代藩主)- 正朝(2代藩主)- 恒朝(3代藩主/ 虚偽の報告で改易)- 寿朝(家名を再興)- 泰高

忠朝のとき、加増され1万1000石の大名となったため、勝浦藩の初代藩主となった。2代・正朝までの160年余り、勝浦を治めてきた。3代藩主の恒朝の時、身内の殺人事件を病死と偽って幕府へ報告したため改易させられた。次の寿朝では家名だけは存続が許された。

1751年、恒朝が改易された後、大岡忠光が勝浦を治めることになったが、1756年に岩槻藩へ移ったため、勝浦には陣屋を置いて統治を続けた。ちなみに勝浦で古くから信仰されてきた「船霊様」では麻を使ってきたが、1852年ごろから人形に変わった。それは「人形の生産地で知られる岩槻の文化が、勝浦にもたらされたから」と考えられる。

植村氏の菩提寺である覚翁寺は長い間、補修されないまま放置されてきたが、植村氏の末裔である植村澄三郎(1862年1~1941年)が財を投じて改修している。

覚翁寺は長い間、補修されないまま放置山門。

遠見岬神社

内宿西谷の丘陵地 最北端に鎮座する遠見岬神社(とみさき神社)。古くは「富大明神」と呼ばれていたが、明治4年(1871年)、新政府の社格制度の発令により、遠見岬神社と改称されている。

富咲の石段60段もあるこの長い石段は「富咲の石段」と呼ばれる。2月下旬から3月にかけて1200体の雛人形が並ぶ。(ビッグひなまつり)。明治42年の写真では鳥居の前に橋が架けられていたので、かつて勝浦城の外堀として利用されていたのかもしれない。

植村氏三代の泰朝により現在地に遷座旧・遠見岬神社にあった神社は1601年に津波で流され、御神体は火防稲荷神社付近に流れ着いた。一時期、宮谷(安祥院のあたり)で仮宮にて祀られ、1659年、植村氏三代の泰朝により現在地に遷座された。同年、泰朝は串浜陣屋に館を移しており、市街地からかなり離れている。

現在の社殿は1849年に造営されたものである。

4代目 武志伊八郎 信明本殿の彫刻は「波の伊八」こと4代目 武志伊八郎 信明(1862~1908年)の作。4代目の代表作は柴又帝釈天の彫刻。

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