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船橋市散策!花輪城・峰台・船橋大神宮・船橋城

船橋市の城跡として、花輪城、伝・船橋城へ行く。里見軍の敗走ルートの峰台・夏見の薬王寺、ついでに船橋大神宮(意富比神社) 界隈をめぐる。

花輪城(茂侶神社:もろじんじゃ)

船橋市東船橋にある宮本中学校の南に茂侶神社があり、ここが花輪城らしい。近くにある花輪インターチェンジはよく利用したものだが、花輪という地名はなく「どこから来たのだろう?」と疑問に思っていた。なるほど城名から来ていたわけか・・。(2014年1月訪問)

船橋の茂侶神社
茂侶神社参道入口。ここでは社名碑や鳥居もないのでちょっとわかりづらいが、雰囲気で判断できる。地元では砂山と呼んでいるらしい。古布多(こぶた)の池が大昔にはあったらしいが、どこかは分からない。

花輪城
ゆるやかな坂道になっているが、所々脇道に土塁っぽい遺構が感じられる。

東船橋花輪城
石鳥居が見えてきた。右側には平場があるが城郭なのか、住宅地用にさらした土地なのか分からない。中学生が何度も通り過ぎていくので、どうやら近道として活用しているようだ。

鳥居茂侶神社
年季の入った鳥居で、茂侶神社と彫り込まれている。

延喜式神名帳
社殿に到着。延喜式神名帳という、927年にまとめられた当時の官社指定神社一覧では、千葉県に茂侶神社が3社あり、流山市と松戸市にもある。この2社では大物主命が祭神だが、ここ船橋市の茂侶神社は木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメ)を祭神とする。

浅間神社
手水舎など境内の様子。浅間神社もある。祭神が木花咲耶姫命ということは富士信仰つながりで、浅間神社なのだろう。結局、花輪城についての情報が皆無であるが、高台に位置し城郭に適した雰囲気は感じられた。周辺住宅地では急勾配の道が蛇行しており、それも城郭の名残ではないかと思った。

真名井

宮本中学校の西に隣接して「真名井」という井戸がある。案内板によると、「古くは窪地になっており昔はここの湧き水を汲んで飲料水としていた。弘法大師が錫杖(しゃくじょう)で掘り起こしたという伝説が残る。(もちろん、法力でね)。戦後、宮本中学校を設立するため校庭を整備した頃には、湧き水の水位が低くなっていた。このままでは弘法大師に申し訳ないと、当時の古老達が井戸を整備し、大師堂を祀り直した。」とある。

真名井、船橋、宮本中学
平成20年と記載されている案内板によると、新たに井戸屋形を復元したとある。井戸はコンクリートで塞がれている。

宮本中学校を設立するため校庭
大師堂は2代目だそうだ。

峰台(慈雲寺)

茂侶神社から北西600m先に曹洞宗大峰山慈雲寺がある(峰台小学校の近く)。昔、峰台と呼ばれたところだ。1279年、北条時宗(執権北条氏)の招請により来朝した宋の僧「無学祖元」が開山。開山当初は、現在の峰台小学校の地を中心とし、広大な境内と寺領だったという。(元禄15年の幕府の検地帳によると、三反五畝の境内地と石高四斗の寺領地)

船橋慈雲寺
現在では小規模な境内だが、砦に適した高台で急勾配な道がいくつかあった。

1564年、第2次国府台合戦では、北条氏(後北条氏)に敗れた里見氏が峰台の慈雲寺方面まで敗走。里見氏の殿(しんがり)部隊が本隊を撤退させるため北条軍を迎撃。慈雲寺は兵火で焼失し荒廃したという。
※里見軍の船橋エリア敗走ルート:海神方面⇒夏見の薬王寺⇒城ノ腰(伝・船橋城/中央卸売市場)⇒峰台(慈雲寺~里見軍がしんがりで北条軍を迎撃)

その後、北条氏政が再興した。再興時に臨済宗から曹洞宗に改宗。明治維新では、戊辰戦争(市川・船橋戦争)で戦火に巻き込まれる。現在は昭和20年代に復興したもの。

夏見の薬王寺

船橋市の薬王寺~里見軍の敗退
後日、里見軍の敗走ルートのひとつである薬王寺に寄った。薬王寺坂と呼ばれる急坂を登った台地に建ち、当時は砦として使われたと思われる。

船橋大神宮(意富比神社) 界隈

日本一小さい大神宮船橋大神宮
慈雲寺から伝・船橋城のある中央卸売市場へ向かう道中、船橋大神宮こと意富比神社(おおひじんじゃ)を通過。事実はともかく、日本一小さい大神宮と言われる。天照皇大神が主祭神だが、徳川家康と秀忠公も合祀している。側に船橋御殿や東照宮があることに所以するのだろう。宮司には千葉氏一族(富氏)が務めているそうだが、小田原攻めの支城戦ときには、徳川軍にことごとく攻められた千葉氏。何か微妙な気がする。関与していない分家筋なのだろうか。

社伝では西暦110年からとされるが、平将門、源頼朝、徳川家康など歴代の関東覇者が社殿の造営や改修を行っている。近代では明治天皇、大正天皇、昭和天皇が参拝に来ている。明治維新の戊辰戦争(船橋戦争)で焼失したが再興した。

延喜式意富比大神宮
明治27年発行の銅版画「延喜式意富比大神宮」。大神宮の周辺は海で、入江に囲まれていることがわかる。

御蔵稲荷

御蔵稲荷
江戸時代、飢饉に備えて穀物を備蓄した郷蔵(ごうぐら)の跡地。いわゆる共同倉庫だったところ。この跡地に御蔵稲荷が建つ。右側には児童公園があるが、昭和33年まで船橋市役所があった。

船橋東照宮(船橋御殿の跡地)

船橋東照宮
1612年、家康の命で武蔵小室藩主・伊奈忠政が建てたとされる船橋御殿。現在、その跡地には東照宮が建ち、船橋大神宮の宮司・富氏が貞1600年代後半に建立したらしい。地元では「日本一小さい東照宮」で知られる。祭神はむろん徳川家康こと照大権現。

船橋東照宮のタバコ
社殿の雨受けはすっかり灰皿。こういう輩がいるから、非喫煙者から執拗に嫌われるんだよ。マナーを守る者もいるのだろうが、共同責任でタバコ1本千円に値上げすれば、こういうことも減ると思う。

道祖神社

道祖神
船橋道祖神社。こちらも地元では信仰深い。村の境界や路の分岐点に置かれるのが道祖神であり、村に悪霊が入るのを防ぐ。

伝・船橋城(中央卸売市場)

中央卸売市場が中世における船橋城と推測されている。ろくに史料もなく、これといった遺構もない。存在すら疑わしいが、中央卸売市場に隣接する南東の位置に土塁があったという話や「城ノ腰」という古い地名などが伝わる。前九年合戦(1051年~1062年)で源頼義に従軍した船橋弥太郎という名は残されているが、何らかの関係があるのではないかとされる。

現在言えることは、「海老川が堀だったのではいか、流通の要所だったのではないか」と推測するのみ。埋め立てられているが、昔はこの近辺は入江(海が入り込んでできた地形)だったらしい。京成線の大神宮下駅から京成船橋まで、極端なカーブを描いたレールが敷かれているが、これは入江の影響ではないかと思う。

船橋発祥の地
中央卸売市場へは、「船橋発祥の地」とされる記念碑から海老川橋沿いを北に進む。

鴨川ニッケル加工㈱事故の鎮魂碑

中央卸売市場の正門に到着。昭和18年に建立された鎮魂碑がある。鎮魂碑のエリアは一般来客用の駐車場端にあり、広さは車8台分ほど。昭和15年に鴨川ニッケル加工㈱が建設され、戦時下、飛行機部品を製造していた。

鎮魂碑-中央卸売市場
戦局がたけなわとなる昭和18年1月10日午前十時ごろに電気溶鉱炉が爆発、従業員22名が命を落とす。

将門の松(伝説)

中央卸売市場-船橋城と平将門鎮魂碑のエリア中にはいると唐突に「将門の松」という石碑がある。関八州を攻略する平将門(~940年)が遠征地で腰掛けた巨松らしい。ただし、1000年以上も歳月が流れており、現在のは何代目かの松である。「腰掛け松」として地元の人が代々伝えており、永く後世に伝説を残すべく伝承地が保存されている。巨大な松だったというが、現在のは小さな松である。

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